京畿道・漣川(ヨンチョン)の「台風展望台」。張り詰めた緊張感が漂う最前線の展望台で出会った解説員は、意外な言葉を口にしました。目の前には、高さがほぼ同じ山々が幾重にも連なっていました。 高さ200~300メートルの峰々が北に向かって長く連なり、その間を臨津江が蛇行して流れています。京畿道北部ならどこでも見られるような風景です。しかし、解説員の説明を聞いてみると、ありふれた山々が違って見えてきました。
どこまでが南で、どこからが北なのかが少しずつ見えてきました。山々の間に長く続く鉄条網が、まさにその境界線でした。軍事境界線までの最短距離はわずか800m。平地であれば十数分で歩いてたどり着ける距離です。しかし、ここではその短い距離さえ越えることはできませんでした。 近い土地がこれほど遠く感じられるという事実そのものが、馴染みのないものでした。延川を旅することは、このように安保と分断の現実を肌で感じることです。
◇分断の線に引かれた、もう一つの心の壁
台風展望台に行くには、まず時間を合わせなければなりません。漣川郡中面の入退場案内所で身分確認を受け、決められた時刻に案内車両に従って移動しなければなりません。入退場は1日4回です。1回につき車両10台、最大80名までしか入ることができません。この2つの条件をすべて満たして初めて入ることができます。徒歩や自転車での入退場はできず、軍部隊の事情により突然立ち入りが制限されることもあります。
展望台では写真撮影が制限されています。どこで写真を撮ってよいか案内を受けなければならず、決められた動線から外れてもいけません。入場券を買って思う存分歩き回れる一般的な観光地とは、かなり異なります。見渡す限りの視界のおかげで、非武装地帯を見下ろす風景だけは延川のどこよりも素晴らしいのですが、肝心の厳しい出入り制限のため、定員に入らなければ引き返さなければなりません。 観光地である以前に、厳重な軍事施設であるという事実を痛感させられる現場です。
展望台に入ると、解説員はまず山の形状について説明しました。北朝鮮がどこにあるかを探そうとしないように言われたのも、そのためでした。山を十分に眺めた後で、ようやく軍事境界線の話が出ました。臨津江を挟んでどこまでが南側で、どこからが北側なのか、軍事境界線と南方限界線はどう違うのか、という説明が続きました。 「台風展望台」という名前は、かつてこの地を管轄していた陸軍第28師団の別称である「台風部隊」に由来しています。部隊の再編以降は、隣接する部隊が警戒任務を分担して担当しています。
台風展望台内の平和公園に並ぶ各種参戦記念碑。「国連タイ軍参戦忠魂碑」や「少年戦車兵記念碑」などが、戦争の痛ましい歴史と戦没者の魂を偲んでいます。(写真=イーデイリーKang Gyeong-rok 旅行専門記者)
解説員は、現在この一帯を守っている陸軍第25師団について説明する中で、先日発生した地雷事故に言及しました。事故は台風展望台ではなく、別の作戦区域で発生しました。軍当局は国連軍司令部と共同調査を行った後、北朝鮮軍が軍事境界線の南側に埋設した樹脂製歩兵地雷が爆発したものと最終判断しました。
そのせいか、この場所の雰囲気はさらに緊張感に満ちていました。それでも、展望台から見下ろす山々は静かでした。木が生い茂り、谷が連なる、ありふれた山と何ら変わりはありませんでした。しかし、その山のどこかで、兵士たちが昼夜を問わず警戒し、地雷を探し出そうと捜索作戦を展開しています。旅行者がひととき眺めて立ち去る風景の背後で、誰かが毎日命を懸けてその場を守っているわけです。
漣川(ヨンチョン)の臨津江(イムジンガン)ダプサリ庭園の入り口に設置された木の造形物が、秋の日差しを受けて地面に立体的な影を落としています。(写真=イーデイリーKang Gyeong-rok 旅行専門記者)
最近、北朝鮮は韓国との境界をさらに強化しています。南北を結んでいた道路や鉄道を遮断し、軍事境界線一帯に新たな防衛施設を設置しています。北朝鮮が韓国を敵対的な別個の国家と規定するにつれ、物理的な断絶も深まりました。1953年7月27日に締結された休戦協定は、戦争を完全に終わらせる平和協定ではありませんでした。戦闘を一時的に停止するという約束でした。
70年以上の歳月が流れた今も、その日に引かれた軍事境界線は変わらず、南北を分断し続けています。展望台から降りる前に、北側の山を改めて眺めました。私たちのそばでいつも見慣れた山と何ら変わりはありませんでした。そんな山を目の前にしながらも、向こう側へ渡ることができないという事実が、心に重くのしかかりました。
台風展望台から4kmほど下ると、雰囲気は一変します。臨津江沿いのサムゴッリに位置する「臨津江ダプサリ庭園」です。厳格な入園手続きや厳重な規制から解放され、わずか5分ほどで華やかな晩秋の風景の中へと足を踏み入れます。
この庭園にも物語があります。軍南洪水調節ダムの建設後、生態系を乱す植物が生い茂っていた放棄された水没地を整備したのは、他ならぬ中面の住民たちでした。雑草を取り除き、ダプサリと花を植えて、地域を代表する秋の名所へと育て上げました。
秋の日差しを浴びて赤く染まったアキノキリンソウの間を歩くのに、身分確認も、決められた動線も必要ありません。先ほど台風展望台で通らなければならなかった煩わしい入館手続きは、たちまち遠い過去のことのように感じられます。気に入った風景の前で思う存分足を止めてもよいほど、ここは極めて平和で自由な場所です。
◇1500年前の境界の城壁…北の地を見つめて
臨津江には、この地の歴史を秘めた場所が至る所に残っています。長南面元堂里の「ホロゴル」は、三国時代、高句麗が臨津江の北側にある玄武岩の台地の上に築いた城です。城跡に足を踏み入れると、広々とした草原の果てに、重厚にそびえ立つ城壁が目に飛び込んできます。 西側には臨津江が流れ、川岸に沿って玄武岩の断崖が続いています。南側と北側は川岸の断崖を天然の城壁とし、陸地と接する東側のみに人工の城壁を築き上げました。
高句麗がこの地に城を築いた理由は、ホロゴルの下流にある臨津江に浅瀬があったためです。水深が浅いため、船がなくても川を渡ることができたからです。 大規模な軍隊が移動する際、浅瀬の確保は勝敗を分ける鍵であり、高句麗はこの要所を遮断するためにホロゴルを築きました。当時、臨津江は熾烈な国境線でした。漣川にはホロゴルのほか、唐浦城や銀台里城も残っていますが、これらはすべて川辺の地形を活用し、渡りやすい要所を監視していた高句麗の河岸の城郭です。
ホロゴルの城壁に座り、静かに臨津江を見下ろします。城内には雑草だけが茂っています。敵の動向を窺いながら緊張を緩めることができなかったその場所は、今ではのんびりと臨津江の風景を鑑賞する名所となりました。1500年前、高句麗が命を懸けて守ろうとした要塞は、今や誰でも気軽に登って風を感じることができる歴史遺跡となっています。
旅の締めくくりは「玉女峰」で迎えました。標高205mの玉女峰の頂上には、高さ10mの巨大な彫像が立っています。何も身に着けていない裸身で、両腕を下ろし、腰を少し曲げた男性の姿です。彫刻家ユ・ヨンホ氏の作品『グリーティングマン』(Greeting Man)です。
グリーティングマンが視線を向けているのは北側です。軍事境界線の向こう側の北の地に向かって、腰と頭を15度傾けて挨拶を捧げています。相手に対する礼儀を尽くしつつも、自らの尊厳を失わない角度として15度を選んだのです。裸身の巨人には、身分やイデオロギーといった区別は存在しません。 ただ「人」という本質だけが残ります。この『グリーティングマン』は2016年4月、この地に設置されました。北の地との距離はわずか4km余りです。作家は、南の延川(ヨンチョン)の玉女峰(オクニョボン)と北の長豊郡(チャンプン郡)の馬良山(マリャンサン)にそれぞれ彫像を建て、向かい合わせにしようとしていましたが、南の巨人だけがその場所を見つけたに過ぎません。
いつの間にか、太陽は西の山並みの向こうへと傾きました。夕日の光が、グリーティングマンの玉のような体に降り注ぎました。太陽が沈むのは西でしたが、巨人が見つめる方向は北でした。
「グリーティングマン」が建立されてから10年間、南北関係は幾度となく変化しました。その間、玉女峰の巨人は一度も場所を移すことはありませんでした。今日もこの巨人は、両腕をきちんと下ろしたまま、北の方角に向かって腰をかがめていました。